現代でも「働けど働けど貧乏なのです」「働けど働けど貧乏から抜け出せません」と言う人がいますが、石川啄木がすでに短歌を通して働く人の感情を的確に表現しているではありませんか。
時代が変わって、とんでもなくいい時代になったのに、同じように働けど働けど貧乏なのはなぜでしょう。
「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」(石川啄木)
このなかで、「どれほど働いても我が暮らしは楽にならず、少しも変わらない。我が手をじっと見つめる」と歌っています。
明治時代に生きて、わずか20歳過ぎで「働けど働けど我が暮らしは楽にならず」と悟っているのです。
それなのに、こんな便利な時代に生きていて「働けど働けど貧乏」と言っているとしたら、何か間違っています。
働けど働けど貧乏は昔のことだと思っていたら、自分の身で経験している人もいるかも知れません。
わたしも働けど働けど貧乏を経験して、その辛さを身に沁みて感じました。
平和ないい時代なのですから、貧乏になりたくない人は働く前に気づいて、その対策ができています。
働けど働けど貧乏なのはなぜ?
わたしは石川啄木の真似をして自分の手をジッと見てみました。
その時、思ったのです。
もしかしたらこの手を活かす場所を間違えているのかも知れないと。
自分という種をまく場所を間違えているんじゃないかと気づけば、その場所を変えることのできる時代に、わたしは生きていることに気づいたのです。
あなた自身は素晴らしい種を持っているのに、その種をまいた畑が悪いのかも知れません。
あなたがいくら優秀で素質があっても、あなたが選んだ会社に問題があるとしたら、そこに良い結果は生まれないものです。
そういった場所で働いていても、暮らしがよくなるということはないと思いますよ。
あなた自身の考え方と生き方の問題でしかありません。
求めても何も変わらないなら、自分の考え方や行動を変えることです。
自分の考え方や行動を変えることで、あなた自身の能力を発揮できる場所を見つければ、きっと良い方向に変えることができると思います。
わたしは、働けど働けど貧乏になった原因は、自分自身の中にあることに気づきました。
働けど働けど貧乏なら働く場所を変えるしかない
自分自身を種に見立てて考えてみたら、種をまく場所が違っていたことに気づいたのです。
自分の種は「雇われて働く畑」には、あっていませんでした。
合わない場所にいくら種をまいても、期待するほどの成果が得られません。
自分にあった畑を探してみたら、インターネットとパソコンを使った、ネットという新しい畑を見つける事ができました。
ネットという畑を耕して、自分の種をまいてみたら、働き方も生き方も全く変わってきたのです。
「働けど働けど貧乏生活」から抜け出し、お金を稼ぎながら自由な時間も得る事ができてしまいました。
わたしの場合はパソコンを使ったネットの世界でしたが、働く場所を間違えると「働けど働けど貧乏生活」から抜け出せないということです。
自分にあった場所は何かを、じっくりと考えてみてはどうでしょう。
今回はわたしの個人的経験をもとに「働けど働けど貧乏」について考えてみました。
どんな時代でも安い賃金で働いていたら働けど働けど貧乏暇なし
働き方を間違えていればいくら頑張っても頑張っても報われません。
「働けど働けど貧乏」なら、自分の手を見て感じて欲しいのです。
あなたは自分の手を見て何を感じるでしょう。
周りの環境が悪いのではなく、自分の行動が間違っているから「働けど働けど」となってしまうのです。
今働いている仕事で「働けど働けど貧乏」なら、そのまま働き続けても一生貧乏から抜け出せません。
今の生き方働き方が悔しい、抜け出したいと思うなら、心の底から向上心を湧き出させて、心に火をつけてみてはどうでしょう。
握りこぶしの中に力がみなぎって、今まで見えなかった世界が見えてくるかもしれません。
あなたが心からやりたい仕事は何ですか?
あなたが心の底からやりたい仕事をするなら、恐らくあなたの環境は大きく変わるでしょう。
「働けど働けど貧乏」なので会社で働くのをやめた
わたしの経験も一つの生き方ですので紹介します。
わたし自身も「働けど働けど貧乏」だったので、貧乏から抜け出せないと思っていました。
そこで、「働けど働けど貧乏」なのはなぜだろうと考えてみたのです。
そういったことを考えていた頃、世の中の景気が悪くなって会社を解雇されてしまいました。
働かずにパソコンで暇つぶしの毎日から働き方が変わる
仕事が無ければますます貧乏になると思いながらも、仕事も見つからないので、パソコンを使って暇つぶしをしていたのです。
一年ぐらいの間暇つぶしに作ったサイトで、お金が稼げてしまったのですから驚きました。
そのうち会社で働かないでも、インターネットやパソコンを使って、自分で稼げることを知ってしまったのです。
とんでもなく素晴らしい時代になっていました。
「働けど働けど貧乏」だったのに、遊んでいてもお金が稼げてしまうのですから信じられません。
もしかしたら会社で働いているから、貧乏から抜け出せないのではと思えてきました。
それ以来会社で働かずに10年が過ぎていますが、貧乏になるどころか自分でお金を稼いで、個人事業主で自由な生活をしています。
インターネット環境がある所なら、どこでも仕事ができてしまうのですから便利ですね。
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でもやり方次第では「働けど働けどますます貧乏」から抜け出せなくなるので注意しましょう。
「働けど働けど貧乏」脱出のヒントにしたい
若い時に「働けど働けど我が暮らしは楽にならず」に気づいていたら、会社で働くにしてもより収入の良い仕事につくための努力をしていたか、もっと違った生き方をしていたのではと思うのです。
とんでもなく甘え切った生き方をしてきたので、中高年あたりで「働けど働けど」の試練が与えられたのかも知れません。
自分の20代の頃を考えてみたら、働いて稼いだお金で遊びまくっていたので「働けど働けど」なんて考えてもいなかったような気がします。
良い畑に良い種を蒔こう
自分で蒔いた種の責任は自分にありますので、次に蒔く種はよい良い畑を選びましょう。
いい畑を借りて手入れをし種をまくといい作物が育ちますし、令和という時代の畑を自分で耕して種をまくのもいいと思います。
でも手入れもほとんどされない畑に種をまいても、いつまで経っても良いものは作れません。
自分が今どういった状況で生きているかを、じっくり考えると見えてくることもあります。
そう考えてみると20歳そこそこで、「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」といった、無力を悟ったような感情を歌にできた石川啄木は素晴らしいと思うのです。
「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざり」安い給料で働いていたら、いつまで経っても楽にならないかも……。
「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざり」は普通に理解できても、「ぢっと手を見る」をどう解釈してみますか。
「ぢっと手を見る」をどうとらえるかで、「働けど働けど貧乏」脱出のヒントになるかも知れません。